切手の思想家たち2022

世界の切手のうち、思想家・科学者・芸術家を中心に人物切手について自由に書きます。題名は故・杉原四郎先生の『切手の思想家』(未来社)をリスペクトしてつけました。

フォイエルバッハの切手と疎外論、疎外なくしたつもりでのポルポト化や個人崇拝型政党やオンラインサロンなどの危険性

今日は、ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(1804-1872)の生誕日でした。以下は、フォイエルバッハ生誕200年を記念して、2004年にドイツから発行された肖像切手です。

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フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学やキリスト教への批判者として、当時の青年ヘーゲル派やカール・マルクスらに多大な影響を与えたことで知られています。日本や世界でもフォイエルバッハの研究は盛んですね。

 

フォイエルバッハといえば「疎外論」が有名ですが、これはヘーゲル哲学が事物や歴史、文化などを理念・精神の自己展開(脳内展開)でみて、それで世界を評価することに対する反論として提起されました。むしろ理念・精神こそ、その脳内の勝手な思い込みで、現実の人間の営みを「疎外」している、として批判するのです。

 

この「疎外論」については、松尾匡さんの整理がわかりやすいでしょう。長文ですが、ヘーゲルフォイエルバッハ疎外論のところまでは簡単に読めるはずです。

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/yougo_sogai.html

 

フォイエルバッハ疎外論は、マルクスに大きな影響を及ぼしました(旧ソ連の公式解釈は否定してその解釈を弾圧)。松尾匡さんの疎外論のまとめでは、マルクス疎外論は、フォイエルバッハらと違い以下のような特徴を持っています。

「それは、フォイエルバッハが疎外を単に個人的な思い込みのようにみなし、みんながこの思い込みを捨てれば疎外から解放されると考えていたのに対して、マルクス達は疎外がどうしてもおこってしまう原因を社会の仕組みの中に見いだしたことにある。原因が社会の中にあるのならば、社会の仕組みを変えなければ疎外をなくすことはできない」、「疎外をなくすためには、人々がそれぞれの狭い特殊性にいこじに凝り固まっていてはならない。別に自己犠牲的な利他主義者になる必要などないが、みんながお互い理解しあって協力しあえる性格を持たなければならない。これが人格の普遍化ということである。19世紀資本主義の発展の中にマルクスが見いだしたのは、技能や職業や地域や民族のいろいろな特殊性を剥ぎ取られて、みんなスッカンピンの均質な存在になることによる普遍化であった。私はこれを「喪失による普遍化」と呼んでいる」

 

マルクス疎外論解釈と、マルクス的な疎外からの脱却を、松尾さんは定式化するわけです。で、松尾さん本人はこのマルクス的な解法には批判的で、むしろSNSやあるいは街のNGOなどの活動を通じて、個性を尊重しながらみんなでつながる経済をつくればいいのではないか、でもそれでも疎外はいたるところにあるから常に注意すべし、ということを書いています。これらの発想は、後にゲーム論的な枠組みで『はだかの王様の経済学』などに結実していきますね。

 

この松尾匡さんの疎外論解釈を巡って、かなり前に山形浩生さんが手厳しい批判を展開していました。

 

その模様は僕の別ブログでも経緯を少し書いていました。個人的には僕は山形さんの批判が正しく、松尾さんの議論自体が(本人もその危険性をみとめている)疎外の乱用につながっていると思いました。

まず山形さんの反論。

『はだかの王様の経済学』は戦慄すべき本である

このまとめとかは、松尾的疎外論への適切は批判である。

「疎外の有無を決定づけるのは「本質」とか「本来の姿」との乖離だ。でも、何が「本質」で何が「本来の姿」なのかは決めようがない。
「本来の姿」の言い換えとして使われるのが「自然な実感」。でもだれが何を実感しているかなんて知りようがない。
疎外だなんだと騒ぐ前に、自分で努力すれば解消できる部分も多いんじゃない?」

 

そして山形さんは松尾疎外論の戦慄すべき側面を描いている。

「たとえば私有制は疎外の結果だ、と松尾は言う。つまりだれも私有なんか望んでいないんだけれど、他のみんながそうするから、やむを得ず私有するんだ、と。ポルポトたちもそう言った。そして、私有制を廃止することにした。それが招いた不幸は、筆舌にはつくしがたい。

 でも、ここで疎外論の非常に困った性質が出てくる。疎外論的にいうなら、みんながそれで不幸になるのは疎外が続いている証拠であって、なぜ続いているかといえばだれかがその「内心願っている状態」を裏切る形で動いているからだ、ということになる。みんな「王さまははだかだ」と言いたいんだけれど、どっかで悪いヤツが「いいやはだかじゃないぞー」と陰に陽に言っているから、みんなその内心願っている状態を表に出せずにいるんだ、という理屈。だからそいつを見つけて粛正しましょう、労改に入れて再教育しましょう、というわけ。フォイエルバッハは疎外の解決策として、外部に偉大な神様とかいうのを設けるのがだめで、それを再び自分の中のものとして取り戻さなくてはならないと言ったとか。再教育キャンプはまさにそれをやるところだ。この理屈には歯止めがかからない」

 

フォイエルバッハは勝手に自分だけで「疎外」を乗り越えていればいいが(=被害者は本人だけ)、社会全体で疎外の克服を目指す、マルクスや松尾の試みは、山形さんの指摘の通りに地獄へのふたをこじあけかねない。松尾さんは「それはならない」というが、その時に彼の物言いは、人のよさと「良心」とかを信じろ、というのに等しい、と僕は思うのである。個人に帰属してその「良心」に期待するって(で、結局その個人の影響力の中でしか物事考えられず、そこから逃げ出すことに恐怖も感じるとか)、なんだかいまでもどっかの個人崇拝政党やオンラインサロンでもみかけるような気がするのですね。